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자료유형
학술저널
저자정보
南基鶴 (翰林大)
저널정보
동양사학회 동양사학연구 東洋史學硏究 第136輯
발행연도
2016.9
수록면
205 - 246 (42page)
DOI
10.17856/jahs.2016.09.136.205

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鎌倉幕府は武士政権としての威光 · 威勢を国家と社会の中で確保し、主張しようとした。かかる鎌倉幕府の威光を「武威」と捉え、それが鎌倉時代を通じてどのように発現され、展開していったのか、その諸相を考察した。
鎌倉幕府の創立者源頼朝は、武士政権として備えるべき幕府の「武威」への自覚と自負を持っており、その「武威」を朝廷や全国の武士に認識させ、国家の中で正当なものに定着させた。ただ頼朝は、鎌倉幕府を朝廷の下で諸国を守護する軍事権門として位置づけた。幕府の「武威」は王朝国家から独立したものではなく、あくまで国家体制の中での公権力としての「武威」であった。頼朝は日本歴史上初めて武士政権の「武威」を創出したのではあるが、王朝国家たる朝廷の「朝威」を仰ぐ姿勢を決して崩さなかった。
こうした「武威」と「朝威」のあり方に大きな変化を齎したのが、まさに承久の乱であった。承久の乱は朝廷の権威が瓦解し、武士の世の始まりを人々に告げ示す事件であった。この戦乱以降、幕府の「武威」は「朝威」を圧服し、やがて「朝威」の「武威」への追随姿勢さえ現われた。寺社側も乱後、幕府の「武威」を強く意識し、その「武威」を憚るようになった。鎌倉末期に至って、「武威」の用語が幕府の武威、または幕府そのものを指す言葉として広範に使われるほど、もはや「武威」が大いに重んじられる時代となった。
だが、「武威」のみで武士政権の正当性や政権存立の理念的根拠が充足するのではない。ここに、東アジアの普遍的な統治理念といえる儒教的徳治 · 善政思想、その中核である「撫民」の理念を積極的に採択 · 受容する必要があった。「武威」の政権にとって不可欠な自己正当化の論理が「撫民」の支配イデオロギーであったといえる。特に、御家人支配の正統性を持ち得ない北条氏政権にとっては、源頼朝の政治の忠実な継承者として自らを位置づけ、「武威」と共に「撫民」を掲げることが強く求められた。要するに「武威」と「撫民」は、幕府が掲げた二つの支配理念であり、北条氏政権の正当化の論理だったのである。
「武威」観念は元来、支配意識ないし政治思想の一つであるが、それに止まらず、日本の国家意識としての役割も果たしている。鎌倉幕府の創立後に芽生えたと見られる新しい国家意識としての「武威」観念が、未曾有の対外的危機であった蒙古襲来以降、神国思想と共に高揚したことが注目される。「日本は他国より武士の武芸が優れている国だ」とする自己認識をふまえ、敵国に対して「武威」を振るうことを期待された幕府が、「神国」日本の主な担い手として位置づけられるようになる。「武威」と「神国」は以後、日本の国家意識や対外意識の基底をなす観念として分かち難く結び付いて継承されてゆく。豊臣秀吉の朝鮮侵略にあたって、「神国」日本の「武威」を示すことが宣揚されたのはその現われであろう。

목차

Ⅰ. 머리말
Ⅱ. ‘武威’의 창출
Ⅲ. ‘武威’와 ‘朝威’
Ⅳ. ‘武威’와 ‘撫民’
Ⅴ. ‘武威’와 ‘神國’
Ⅵ. 맺음말
참고문헌
日文抄錄

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